「寛容な心」
(マタイによる福音書22:34-46)
ファリサイ派の人は聖書のなかで律法にまじめに生きてきた人としてしばしば描かれます。当時の人々に与えられた律法の数は613だったそうです。そのなかでも朝夕の祈りで唱えていたシェマーの祈り(「聞け、イスラエルよ」から始まる祈り)と呼ばれた「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい」という祈りはイエスが言うように第一とされました。そして、イエスが第二で挙げている「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めも大きな戒めとして彼らは共有していました。レビ記の19章にこの戒めは記されていますが、この戒めを具体的に勧告している事例として、イスラエル人以外の寄留者を大切にするということが挙げられています。
そして、イエスはこの2つの戒めと共に、律法全体と預言者とがかかっていると言います。ファリサイ派ののなかの律法の専門家は、イエスにどの律法が最も重要かを尋ねているのですが、イエスは律法のみならず預言者、つまり、神さまのメッセージを受け取っていたとされる人々のことも挙げているのです。イスラエルの人々をエジプト抑留から解放したモーセ、イスラエルの民が王制を望んだときに心配して主に祈ったサムエル、偶像礼拝をしているバアルの預言者と対峙したエリヤ、終わりの日の平和を「彼らはその剣を鋤にその槍を鎌に打ち直す」と預言したイザヤ、周りは骨だらけという絶望的状況にあったイスラエルの民に、「枯れた骨よ、主の言葉を聞け」と希望を語ったエゼキエル、神からの公正がなされぬまま、イスラエルの農民が干ばつや飢饉で苦しんでいるのを横目に神殿の礼拝で献げられている穀物の供え物を批判したアモスなど、律法とイスラエルの民の救いの歴史を神さまから預かった言葉としてイスラエルの民に紹介している預言者の存在は無視できない事柄でした。その救いの歴史のなかで大切にされたのが先の二つの戒めです。苦労してきたイスラエルの民が神さまから与えられた精神は、神を愛し、隣人を愛する寛容性を本来共有してきたはずです。そのことをイエスは私たちに思い出させてくださっています。
(執事ウイリアムズ藤田 誠)