「散々な目に遭っている人」
(マタイによる福音書21:33-43)
ある家の主人がぶどう園を造り、農夫たちへ貸します。そして、収穫のときにこの主人は農夫たちのところへ僕たちを送りますが、彼らは袋叩きにされたり殺されたりと散々な目に遭います。今、私たちがこのたとえ話を聴くとき、この散々な目にあっている人は誰でしょうか?また、神さまが造られた自然の内にも散々な目にあっている環境があることも覚えたいと思います。そして、散々な目に遭わせている者の内に自分もいるということをふり返りたいと思います。そのふり返りの先に神さまは私たちに希望を示してくださると信じたいと思います。それは、このたとえ話を語られた主イエスご自身の言葉に表れていると思います。21章42節にそれが確認できます。
イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石 これが隅の親石となった。 これは主がなさったことで 私たちの目には不思議なこと。』
イエス・キリストもまた、人々から散々な目に遭わされました。それは、イエスのエルサレムでの受難であり、その最終地点である十字架刑です。そして、その先にあるご復活を信じる自由を神さまは私たちに与えてくださっています。それは、直接的であれ間接的であれ関わる人々や自然環境に対して散々な目に遭わせている私たち自身が、神さまが造られた被造物をありのままへ戻れるように関わってゆくという自由へと繋がっているのではないでしょうか。繰り返し過ちを犯してしまう私たちですが、神さまは何度でも神さまが造られた全ての被造物の回復へ私たちを招いてくださっています。それに応える私たちでありますように祈ります。
(執事ウイリアムズ藤田 誠)