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「手放す」

「手放す」
(マタイによる福音書18:21-35)
先週に続いて今回の主日もマタイによる福音書第18章から福音が与えられています。先週、イエスはある兄弟同士の間でなされた罪ある行動に対して「あなたがたが地上で結ぶことは、天でも結ばれ、地上で解くことは、天でも解かれる」と弟子たちに語りました。そして、きょうは、ペトロが自分に対して罪を犯した者への「赦し」の回数についてイエスに尋ねるのですが、ここで、イエスは「七回どころか七の七十倍まで赦しなさい」とペトロに答えるのでした。先週、イエスが語った「解く」という言葉は「赦し」と連動しています。そして、今回、語られる「赦し」は「手放す」ということと連動しています。つまり、マタイによる福音書の第18章のテーマは「罪の赦し」と言ってよいでしょう。
 ペトロは「赦し」について回数に重心を置きます。これは彼にとって「赦し」が「我慢」であったからと言えるでしょう。私たちもペトロと同様、「赦し」を「我慢」と捉えているのではないでしょうか。他者から受けた過失は自らにとって負担となります。お金でも物でも今まで自分が働いて得た対価を他者に取られてしまったら、それを取り戻すために自分は再び働かなくてはなりません。その過程において、人は忍耐することも覚えるのかもしれません。このような思いを概ねの人は持っているので、人は他者を赦すとき「我慢」を強いられます。
 しかし、このような心持ちのとき、本当の意味で人は他者を赦すことができない状態なのだと思います。では、どのようにすれば人は他者を心より赦せるようになるのでしょうか?今回、イエスは「赦し」について「七回どころか七の七十倍まで赦しなさい」と言います。これはイエスにとって「赦し」が回数の問題ではないからでした。イエスは十字架に付けられて死に、三日目に蘇えったとき、自分を裏切った弟子たちを責めませんでした。これはイエスが彼らに対して我慢したからではなかったからと言えるでしょう。彼らを大切にしていたゆえに赦せたと言えるのでしょう。イエスのように自らに過失を与えた他者つまり人々に対して赦すことができるためには、今回のテーマとも言える「手放す」ということを実施するほか無いのでしょう。より具体的に言うならば、すべての思いを神さまに預けて、自らの思いを表に出さない。つまり、神さまに全ての思いを委ねるということです。このことは自分のことを赦すということにも繋がります。すべては神への祈りによって始まります。
(執事ウイリアムズ藤田 誠)

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