「教会の共同体性」
(マタイによる福音書18:15-20)
日本聖公会祈祷書には朝夕の礼拝の冒頭で司式者が聖書のみ言葉を唱える「聖語」がありますが、その「聖語」の一つである「二人または三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」というみ言葉が今日の主日の福音として私たちに与えられています。祈祷書がこのみ言葉を聖語としているように、祈りの場での大切なことが私たちに語られています。それは共同体でイエスの名によって祈るとき、そこにイエスが臨在するということです。また、イエスの名によって祈るとき、願いがイエスによってかなえられる可能性があることはヨハネによる福音書14章14節で書かれている通りです。祈りが個人ではなく、共同体で祈るときイエスが臨在するということが語られています。
では、このみ言葉が語られている背景はどのようなものだったのでしょうか?まず、このみ言葉が収められている物語には「兄弟の忠告」という小見出しが付いています。ある共同体のなかにいた信仰上の兄弟が共同体のなかの誰かに罪を犯したとき、被害を受けた仲間が罪を犯した兄弟へ忠告をしに行きます。そして、忠告が聞き入れられなかったとき、何人か連れて同じように忠告しに行きます。それでも効果が無い場合は教会に申し出なさいという物語です。仲間の欠けや弱さによって他者に罪を犯してしまったとき、個人ではなく共同体性をもってその課題にあたることが記されています。
今回の聖書箇所はマタイ福音書がベースになっているので、山上の説教に代表されるように神さまのみ心を行うという倫理観が福音書全体を通してあるわけですが、キリスト教が個人の魂の救済に留まらず、共同体の信仰をもって神さまのみ心の集大成である「神の国」をこの地上で現わすことに主題を置いているということ、ここに心を留めたいと思います。
(執事ウイリアムズ藤田 誠)