「主よ、私をお助けください」
(マタイによる福音書15:21-28)
日本聖公会の祈祷書において、「昼の祈り」の冒頭で司式者は「神よ、速やかにわたしたちをお救いください」と唱えて会衆は「主よ、速やかにわたしたちをお助けください」と応えます。また、「聖餐式」のはじまりで司祭は「主イエス・キリストよ、おいでください」と唱えます。そして、個々の「祈り」の冒頭で「聖霊よ、おいでください」と唱える場合もあります。いずれも人間が、神やイエス・キリスト、そして聖霊へ呼びかけるとき、その招詞としてこれらのフレーズは存在します。
今回の福音書箇所においてカナンの女性はイエスの間にひれ伏して「主よ、私をお助けください」と懇願します。今回の物語の冒頭でカナンの女性は、イエスに自分の娘が悪霊に苦しめられているので憐れんで欲しいと願いますが、最初はイエスより「私は、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と願いを退けられます。それでもカナンの女性はあきらめずにイエスに「主よ、私をお助けください」と懇願します。このカナンの女性の切羽詰まった様子と祈祷書の「昼の祈り」の招詞は人と神との関係を表しているように思えます。それは、人は自分の力ではどうしようもないことを神に願い祈る存在であり、また、同時に人は神の前において無力であるという謙遜な意志を示す存在でもあるということです。このことを「昼の祈り」の招詞は表し、また、カナンの女性のイエス・キリストに対する切羽詰まった懇願の姿勢にも含まれているのではないでしょうか。私たちがそれぞれに切羽詰まった事柄を教会に持ち寄り神に祈るとき、それが教会という共同体の礼拝になっていきます。共に切羽詰まった事柄を神にお献げしましょう。
(執事ウイリアムズ藤田 誠)