「罪深さゆえに分からない」
(ルカによる福音書9:28-36)
「主イエス変容の日」を迎えます。 8月6日は1945年、広島に原子力爆弾がアメリカ軍によって投下された日です。 この日、多くの尊い命が一瞬にして奪われて、その後、何十年も放射能によって後遺症に悩まされて亡くなっていった方々も数多くいました。今日の聖書箇所において、イエスがエルサレムで最後を遂げることをモーセとエリヤが語ります。イエスの最後は十字架刑という凄惨な出来事でした。 広島での出来事とイエスの十字架を見つめるとき、人間の「罪」深さを省みたいと思います。
広島に落とされた原子力爆弾は人類が手を出してはならないものでした。人間の命、自然、全ての物の存在を脅かす物質です。使用するにあたりどのような理由も言い訳にはなりません。それなのに、それを使用してしまう。この理由は人間の「罪」深さゆえだと思います。そして、私たちはそのことを通してなかなか「悔い改める」ことができない状況を原子力発電所の出来事を通して確認することができます。
今日の福音書の箇所において、イエスと数人の仲間の弟子たちと山に登ったペトロは、衣が白く光り輝いて顔の様子が変わったイエスと栄光に包まれて現れたモーセとエリヤを見たとき、このように言いました。「先生、私たちがここにいるのは、すばらしいことです。幕屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのために。」しかし、福音記者ルカはこのあと、次のように綴ります。「ペトロは、自分でも何を言っているか、分からなかったのである。」
ペトロもまた、私たちと同じ人間です。それゆえに人間の「罪」深さゆえにイエスの姿が変わった意味、栄光を指し示す意味が分からなかったのだと思います。
8月は平和を覚える月です。わたしたちそれぞれが持つ「罪」を省みて「悔い改め」の祈りを献げるときとなりますように祈ります。
(執事ウイリアムズ藤田 誠)