「いろいろな魚がいる網」
(マタイによる福音書13:31-33,44-49a)
イエスは「天の国」(神の国)を表現するのに「からし種」と「パン種」を用いるのですが、「パン種」は当時の人にとって「良くないこと」のたとえでした。それは、イスラエルの人々は神がモーセを遣わして自分たちをエジプトから導き出してくれたとき、そのことを記念して種なしパンを食べたことに起因します。その意味するところとして、もし、種の入ったパンを食べた場合、その人はイスラエルから絶たれてしまうと主から言われていたということです。しかし、イエスは「パン種」を「良いこと」の材料として「天の国」(神の国)の豊かさを小麦粉全体の膨らみで現わすのでした。
「良くないこと」を「良いこと」へ転換したポイントはエデンの園を出て以来、持ち合わせている「罪性」と結びつきます。人間はこの世で生きている限りこの「罪性」より逃れることはできません。それを転換するのは「悔い改め」の行為として主へ祈ることと共同体のなかでの「交わり」にありました。聖書で記されている「交わり」は「不浄」の意味が含まれます。この「不浄」を抱えながら人々が交わり、その「悔い改め」として主へ祈ることにより、「天の国」(神の国)がこの世に現れて、「良くないこと」は「良いこと」へと転換されていくのだと思います。
今回、与えられたマタイ福音書の最後に「天の国は、海に降ろして、いろいろな魚を囲み入れる網に似ている」とあります。この「いろいろな魚」のなかにはさまざまな「欠け」がある魚がいて、魚同士の関係に「破れ」もあるのでしょう。人間も同じです。このたとえを聴くとき、不完全な人間であっても、その不完全さを自らが受け入れて、悔い改めの祈りを主へ献げるのならば、主はきっとそれを聞き入れて悔い改めた者を「天の国」(神の国)へ招いて下さると信じたいと思います。
(執事ウイリアムズ藤田 誠)