「私たちの中にある毒麦に対して」
(マタイによる福音書13:24-30,36-43)
「天の国」(神の国)のたとえの流れで「毒麦」のたとえをイエスは語ります。このたとえのなかで「毒麦」を取り除くことに主人は待ったをかけます。理由は「毒麦」を取り除く際にふつうの麦も巻き込んでしまう可能性があるからでした。「毒」を取り除けるのだから多少のことは仕方がないのでは?と私はしばしば思うときがあります。しかし、それは、「毒」を無くすことでリセットしたいという私自身の欲求であり、私の持つ「罪性」なのでしょう。このように振り返るとき、この「毒」とは私たち人間が持ち合わせている自己中心的な欲求に起因する「罪」と置き換えることができるのではと思うのです。「罪」とは神の愛から離れた状態を指しますが、「隣人を大切にする」という神の愛の性質を踏まえると、自己中心的な欲求とは富の占有や自分の利益のために他者を支配下に置くことなど、隣人がみな等しく持ち合わせる個人の尊厳や個人が自分の足で立つ自由を奪うことと結びつくように思います。「隣人を大切にする」ことと紙一重であることとして、支援者が一方的に被支援者を援助することによって被支援者を支援者へ依存させることです。支援者もまた依存されることによって承認欲求が満たされて被支援者へ依存します。これは神が示す「隣人を大切にする」ということにはなりません。かつて、出血の止まらなかった女性がイエスと出会ったことにより励まされたとき、イエスが「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。病者から解放されて、達者でいなさい。」(マルコ5:34)と言われた通りです。
イエスは「毒麦」のたとえの終盤において、世の終わりのときに「毒麦」が集められて火で焼かれると言うように、私たちが持ち合わしている「罪性」はこの世の終わりのときまで精算できないのだと思います。私たちは「罪」という「毒麦」を抱えながらこの地上での生活を生きなければなりません。ある意味、辛い状況です。このようなとき、私たちが日々、お祈りを捧げている「主の祈り」のなかにある「私たちを試みに遭わせず悪からお救いください。」という願いは、イエスが弟子たちを通して私たちに伝えた祈りの救いとして私たちの心に響き渡るように思います。
(執事ウイリアムズ藤田 誠)