「日本に蒔かれた福音の種」
(マタイによる福音書13:1-9,18-23)
イエス・キリストが語る「種」のたとえ話は四つの福音書のなかでしばしば現れます。「天の国」あるいは「神の国」を「からし種」や「パン種」でたとえた話。そして、「信仰」と「からし種」のたとえ話、そして、今回、読まれる箇所で登場する「種」は「良い土地」に落ちて実を結ぶとあるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍となるというたとえ話です。「種」という表記ではありませんが、「一粒の麦」が地に落ちて死ぬと多くの実を結ぶというたとえ話もあります。「信仰」と「からし種」以外はいずれも「種」ないし「一粒の麦」が地上に落ちて、それからどのような過程を経るのかを述べています。この「種」ないし「一粒の麦」は成長して多くの実を結ぶ場合もあるが、成長せず、根付かない場合もあります。
小説家、遠藤周作が書いた『沈黙』のなかでキリシタン禁制下(17世紀)の日本で棄教したフィレイラ神父が弟子であったロドリゴ神父に語る場面でこのような台詞があります。「この国は沼地だ・・・この国は考えていたより、もっと恐ろしい沼地だった。どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。葉が黄ばみ枯れていく。我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった。」
近現代のキリスト教伝播はヨーロッパ諸国の植民地政策と一体でした。先住民の母国語を奪い、侵略者の言語を強制させる過程で宣教師も布教をしていました。その過程でカナダの寄宿舎では神父による子どもへの虐待も起こりました。そして、アメリカでは先住民やアフリカ系の奴隷への宣教師による布教があったわけですが、アメリカの奴隷制度のもとヴァージニアにあるエピスコパルの神学校ではアフリカ系の人々を奴隷として使用していました。また、神学校の人々とアフリカ系の人々の生活は隔離されていました。カナダとアメリカの教会はこのことの反省を今しています。日本は西洋諸国の植民地政策とともに布教されなかったのでアメリカとカナダの教会のような教勢に及ばなかったとも言えますが、これらの事例を見たとき、日本は一概に宣教の地として「沼地」とは言えないように思います。日本が宣教の地として「よい土地」となるのはこれからです。
(執事ウイリアムズ藤田 誠)