「イエスの弟子となる」
(マタイによる福音書10:24-33)
イエスは12人の弟子たちに汚れた霊に対する権能を授けて、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いを癒すために町や村へ派遣しようとします。それは「私があなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り込むようなものである」(マタイ10:16)とイエスが言うように町や村で迫害を受ける可能性があるということでした。なぜ、弟子たちが迫害を受けることになるのか?それは汚れた霊と決めた人にとって、それに触れようとする人もまた穢れた者と烙印を押すからに他なりません。イエスに倣い弟子となる者の歩む道の険しさを表しています。
第二次世界大戦中にナチスドイツが設置したアウシュビッツ強制収容所では多くのユダヤ人が収容所内のガス室で虐殺されました。この収容所の生き残りである心理学者のフランクルはかつて彼の講演のなかで「人間は楽しみのために生きているのではない」と言いました。そして、「生きること自体、問われていること」と語り、楽しみよりも苦しみや悲しみを感じることが多いと人間の歩みを分析します。フランクルのこの分析は彼自身における苦しみと悲しみの受容と言えます。なぜならば、フランクルはブーヘンヴァルト収容所の人々が作っった歌「それでも人生にイエスと言おう」を講演のなかで聴衆に紹介して、「どんな状況でも人生にイエスと言うことができるのです。」と言うからです。
イエスの弟子になることは神さまの愛を拒むサタンの力によって大きな苦悩を抱えるということを今日の聖書箇所は暗示します。しかし、フランクルがその人生において苦難の極みのなかで「それでも人生にイエスと言おう」と思ったように、イエスの弟子となることに大きな意味を私たちキリスト者はその苦難の歩みのなかで恵みとして受け取る自由を主から与えられているのだと思います。
(執事ウイリアムズ藤田 誠)