「マイノリティと出会うイエス」
(マタイによる福音書9:35-10:8)
イエスはガリラヤの町や村を巡りゆき、病気や患いのある人々と出会い、御国の福音を宣べ伝えて癒されました。御国の福音とは現実的でないユートピアのことではなく、神と隣人を大切にして、主の平和をこの世で実現できるという音信(おとずれ)のことです。イエスの生きた時代の病気や患いのある人々は、皮膚の病ゆえに穢れと規定された人々や悪霊に取りつかれたと表現されるように人々の理解を遥かに超えた精神的に疾患のある人々など、社会生活より排除された人々でした。今でいうマイノリティの人々です。日本にいる難民、移民は多くの日本人にとってメリットがないから、性的マイノリティの人々は子どもを産まず、日本の将来的労働力に寄与しないから、このような状況の人々を取り巻く法整備を見るとき、常に損得勘定がすけて見えます。「国益なくして人権なし」と語る人もいます。
イエスがマジョリティとマイノリティの隔てを越えて病気や患いのある人々と交わり、そして、弱り果て、打ちひしがれている群衆を深く憐れんだという出来事を弟子たちは近くで見ていました。そして、彼らはイエスより励ましを受けて、マイノリティと呼ばれる人々へ会いにいくようにとイエスより招かれるのでした。弟子たちにとって、イエスの行なった出来事を見て、また、自分たちもイエスの行ないに招かれたという体験は、この社会で誰かにとって利益があるとか無いとかを越えた価値観の転換、いわば「目から鱗が落ちる」経験をしたのではないだろうかと思います。
父と子と聖霊の名によって洗礼を受けたキリスト者もまた、そのような体験へと招かれています。
日本聖公会聖歌集563に収められている歌詞を心に留めて歩みたいと思います。
「わたしはなりたい、キリストを生きる人に わたしはなりたい キリストを生きる人」
(日本聖公会聖歌集563)
執事ウイリアムズ藤田 誠