「私が求めるのは慈しみであって、いけにえではない」
(マタイによる福音書9:9-23)
聖霊降臨日から三位一体主日にかけて福音が示してきたことは、イエス・キリストが弟子たちの前に復活して現れて「赦しの聖霊」を弟子たちへ吹きかけたこと、そして、イエス・キリストが昇天後、弟子たちへ出会う人々への洗礼を託したことでした。それは、「父と子と聖霊」の名によって出会う人々へ洗礼を授け、イエスが弟子たちに命じた神への愛と隣人への愛を教えることでした。隣人への愛とは、神が「自分のように愛しなさい」とかつてイスラエルの民へ語ったことに起因します。それは、「あなたたちのところに来る寄留者を自分たちの同胞を大切にするように同じように大切にしなさい」と命じたことです。イエスはおそらくこの神の意志を意識して弟子たちへ命じていたのだと思います。私たちの現実の社会を見るとき、特に日本では入管法改悪で示されるようにイエス・キリストの教えとは真逆の価値基準の社会に私たちがいることを自覚せざるをえません。
そのような状況にいるわたしたちに、今回の福音書箇所ではイエスが徴税人と罪人たちと食事をするところが示されます。徴税人はユダヤ人のなかでローマ帝国との繋がりにおいて奴隷を含む物資の交易に必要とされた通関税の徴収を担っていました。実際の課税額が徴税人の裁量に委ねられていたゆえに私服を肥やす徴税人もいました。また、ローマ帝国は異教の神を信仰にもっていました。このような背景より徴税人はユダヤ人のなかで「穢れ」とみなされていました。それは「罪人」を意味します。そして、徴税人と共にいた罪人とは規定の病(新共同訳聖書の場合は重い皮膚病)や精神的に疾患のある人(悪霊に取りつかれた人と表現されています)、目が見えない人、耳が聞こえない人、出血の止まらない女性などさまざまな病人のことだと想定されます。これもまた「穢れ」という想いからくる「罪人」です。徴税人も病人たちも周囲より「穢れている」「神から救われない罪人だ」というレッテルを貼られていました。このレッテルも日本社会には大きな存在として私たちの関係を分断します。それは逮捕された人の有罪率が99%を超えているという数字が物語っていますし、冤罪を生み出していることにも繋がっています。イエスはこのようなレッテルを超えて食事をしたのでした。これは神さまの慈しみであり、よき知らせ、すなわち福音であるということを私は受け止めたいと思います。そして、レッテルが蔓延る日本でこの福音を多くの人々へ伝えることがキリスト者に大きく求められると思います。
(執事ウイリアムズ藤田 誠)