「父よ、時が来ました。」
(ヨハネによる福音書17:1-11)
イエス・キリストは弟子たちの前にご復活されて、四十日後、昇天しました。昇天したイエスは父なる神の元へ戻り、父と一体になりました。イエスは昇天する前、弟子たちにこう言われました。
「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)
そして、彼らに手を上げて祝福しながら天に昇られました。(ルカ24:50~51)
イエスの福音を宣べ伝えるとき、イエスが実際に共にいてくれたら弟子たちも、そして、その後代の人々もどんなに心強いかと思います。しかし、天に昇られてもイエスは私たちと一つであることを今日のヨハネ福音書は語ります。
「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」(ヨハネ17:11)
イエスが弟子たちのために祈った言葉です。今日の福音書の箇所はイエスが十字架に付けられる前に弟子たちに語った告別説教であり、「父よ、時が来ました。」(ヨハネ17:1)という言葉は共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)におけるゲツセマネでのイエスの祈りである「アッパ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください、、、」(マルコ14:36)という言葉に対応します。この「杯」はイエスが十字架に付けられて流される受難の血を意味します。イエスは十字架に付けられる前、ご自分が父なる神と一体であるように、弟子たちもご自身と一体であることを祈りのなかで応えます。そのお祈りはご自身の最期を受け入れる葛藤を含んだ呻きに似た言葉であり、「父よ、時が来ました。」という祈りも同様です。イエスの呻きと共に祈られた弟子たち、そして私たちも含めた後代の人々は、自分たちもこの世で呻きながら祈り、神の国の実現のために行動した先にイエスと一体であるという確信を証する機会が与えられるのではと思います。その究極の形は殉教者ですが、殉教者とまで行かなくとも、イエスと一体であるという確信を教会での交わりを通して、たとえこの世で孤独な状況でもイエスと一体であるという確信を証する機会がこの世で与えられるものと信じます。
(執事ウイリアムズ藤田 誠)