「羊は主の声を聴く」
(ヨハネによる福音書10:1-10)
イエスご自身が羊飼いであり、また、羊の門であるというたとえ話が今日、私たちに与えられています。そして、羊はイエスに一人ひとり名前を呼ばれる存在であり、イエスの声を聴くことができるとイエスは「み言葉」に触れる私たちに語ります。このたとえ話は同じヨハネ福音書の9章で語られている生まれつきの盲人がイエスの業によって目が見えるようになった物語を受けて語られています。目が見えるようになった盲人はファリサイ派に問い詰められます。それは、盲人とは神によって目を見えなくされた人、神の恵みから遠くにいる人と、つまりユダヤ人にとって盲人は罪人と思われていたからでした。
そのような彼がイエスによって目が見えるようになり、イエスが神のもとから来たことをファリサイ派の人々の前で証をすると、彼はファリサイ派によって、その場から追放されてしまうのでした。何と理不尽な話かと思います。
しかし、この追放された目が見えるようになった盲人は再びイエスに出会い「あなたは人の子を信じるか」尋ねられて「主よ、信じます」と応えるのでした。彼はイエスに名前を呼ばれた羊であり、そして、自分の名前を呼ぶイエスの声が聴こえたのでした。それゆえ、イエスという門を通って、羊の群れがいる囲いのなかへ入っていったのではと想像します。一方、彼を追放したファリサイ派の人々は自分たちの名前を呼ぶイエスの声が耳に入らず、それゆえ、イエスという門に辿り着くことができませんでした。
私たちもイエスに呼ばれている羊です。イエスの声が聴こえるように耳をすましたいものです。私たち自身が直接的にまた間接的に目が見えるようになった盲人を追放していないか?そのことを省みる機会を与えてくださる主に感謝します。
(執事ウイリアムズ藤田 誠)