「誰がイエスを十字架につけたのか?」
(マタイによる福音書27:1-54)
復活節前主日は枝(棕櫚)の主日とも呼ばれます。イエスが小ろばに乗ってエルサレムへ入城する日です。それゆえに福音書の箇所はイエスのエルサレム入城の場面かと思いきや実際にはイエスが人々の罵声を浴びながら十字架へつけられる箇所でした。その内容は大斎節中の毎週金曜日に聖堂内で行っている「十字架の道行」と重なります。イエスがエルサレムに入城したとき、人々の中には木の枝を切って道に敷いて熱狂しました。そして、今回の福音書の箇所でも人々は熱狂しています。「十字架につけろ」と人々は総督ピラトへ叫び続けました。「十字架の道行」の式文なかで「人はどうしてこんなにも残酷になれるのでしょうか」という言葉が綴られていますが、人々から虐待を受けるイエスの姿を見て心に表れた思いなのでしょう。イエスはなぜ十字架につけられなければならなかったのでしょうか?そのことを考える時間が一人ひとりに与えられています。
イエスが息を引き取ったとき、百人隊長や一緒に見張りをしていた人たちは「本当に、この人は神の子だった」と告白しました。多くの人々が神から離れてしまった状況のなか、唯一と言ってよい程、神のもとに立ち帰った言葉だと言えます。また、今日の福音書は百人隊長の言葉で終わっていますが、実はこの後に「そこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である」と綴られているのです。弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまいましたが、異邦人である百人隊長は信仰告白をして、大勢の婦人たちはイエスの側にいたということもまた、神に立ち帰った人々の心として覚えたいと思います。
(執事ウイリアムズ藤田 誠)