「イエスとは誰なのか?」
(ヨハネによる福音書9:1-13, 28-38)
イエスはさまざまな「しるし」を残していることをヨハネによる福音書では伝えています。ガリラヤのカナでの婚礼では祝いの席で必要なぶどう酒が足りなくなったとき、イエスは水をぶどう酒へ変えました。また、エルサレムにあるべトサダの池の周りにいた38年間、病気で苦しんでいた人を安息日に癒し、そして、今日の9章では生まれつきの盲人の目を見えるようにしました。イエスの弟子たちにとって、そして、ファリサイ派を中心とした多くのユダヤ人にとって、また、病気を癒された人々にとって、「イエスとは誰なのか?」ということがヨハネ福音書において関心事となります。
イエスを救い主として受け入れられないファリサイ派を中心としたユダヤ人たちにとって、イエスは救い主ではありませんでした。そして、イエスの弟子たちにとってイエスとは、イエスが十字架に付けられて遂げられた死と復活によって、彼らが他のユダヤ人たちから襲われる恐れから解放された体験を経て、「イエスが人々の罪を赦し、主の平和をもたらす救い主」であることを知るのでした。そして、イエスに癒された病人たちは、彼らが癒された「しるし」を体験することによって、イエスを神から遣わされた方と告白するのでした。
私たち個々が「イエスとは誰なのか?」ということが問われています。9章において、イエスを拒むユダヤ人たちがイエスへの信仰を証した病人に対して「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言います。イエスを救い主と受け入れない人々のコメントです。実際、私たちが日々の生活のなかで誰かに対して烙印を押してはいないか?もし、烙印を押している場合、そのことが結果としてイエスを救い主として受け入れていないということを自覚しなければなりません。
(執事ウイリアムズ藤田 誠)