「あなたの神である主を試してはならない」
(マタイによる福音書4:1-11)
2月22日の「灰の水曜日」より大斎節に入り、イエス・キリストの受難への道を私たちが心に刻むときが来ました。イエスの受難は、イエスが霊によって荒野に導かれて、悪魔の試みを受けるところより始まります。悪魔とは人とは異なる異質な存在ではなく、人の思いによって、私たち自身が、神を愛し、人を愛するという神のみ心から離れる状態のことを悪魔という言葉で聖書は言い表しているのだと思います。そのことをよく表している箇所がマルコによる福音書とマタイによる福音書のなかにあります。
それは、エルサレムよりファリサイ派と律法学者がイエスのところへ訪問して、イエスの弟子の中で手を洗わずに食事をする律法違反の者(ユダヤ人は律法によって食事の前に念入りに手を洗うことが定められていました)がいることをイエスに指摘したときにイエスが彼らに言った言葉に表れています。ここではマルコ福音書に記されているイエスの言葉を紹介します。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」
ファリサイ派と律法学者はイエスのところに民衆が集まることをねたむ思いから、イエスの弟子のなかで食事前に手洗いをしないことを指摘しました。イエスの弟子は律法違反をしたことになるのでしょうが、そのことについてイエスを陥れるというねたみの思いから指摘したファリサイ派と律法学者もまた「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という律法に違反しているのでした。
わたしたちの心のなかにあるさまざまな悪い思いは罪の性質であり、それは、人間である以上、避けられないことなのです。それゆえに私たちは常に神に対して、また、隣り人に対して悪い思いで試みようとします。私たちが「そのような悪い試みに合わせないでください」と主に祈ること、そして、そのような思いが自分にはあるということを受け入れることがこの大斎節にできますようにと願います。
(執事ウイリアムズ藤田 誠)