「わたしについて来なさい」
(マタイによる福音書4章12~23節)
イエスの弟子たちは一体どのような人たちだったのでしょうか?新約聖書に記されている弟子たちはいざというときに弱く、神のような力ある者からの権威を欲し、ひと言多い人たちの集まりです。ですから、イエスによく叱られていました。医者や学者のような専門的な知識や技術を持つ人たちではなく、人格的に優れた人たちでもないようでした。どこか自分と似たようなところがあると思う人もいるのではないでしょうか。なぜ、イエスは律法に精通した律法学者や律法に忠実に生きようとしたファリサイ派のような人たちではなく、彼らのような欠けが目立ってしまう人々を弟子として招いたのでしょうか?
その理由を考えるととき、イエスが神殿のあるエルサレムではなくガリラヤで「悔い改めよ。天の国は近づいた」と人々に語っていたことことに心を留めたいと思います。欠けのある罪ある人々にこそ天の国、すなわち神の国が用意されていることをイエスは人々へ伝えたかったのかもしれません。神の国は当時、罪性が周知されていた弱い立場にあった女性や徴税人が先に入れるところであり、また、女性と同じく弱い立場にあった子どものための場所であるとイエスは人々へ伝えます。そこで彼らは神の愛を分かち合えたのでしょう。このことを人々へ伝えさせるために弟子たちはイエスのところに集められたのでしょう。このことを弟子たちが自覚するようになるのはイエスの十字架上での死とその3日目のよみがえりを経てからになります。このとき彼らはイエスがガリラヤで語った言葉「悔い改めよ。天の国は近づいた」を思い出したのかもしれません。
イエスはこのことを知っていましたが、最初の弟子であったペトロとアンデレはまだ、このことを知る由もありませんでした。イエスがこの世に来た意味を捉えきれていない彼らでしたが、「わたしについて来なさい」というイエスの招きに応えて自分たちの仕事と家族を置いてイエスに従っていったのは大きな方向転換であり、それもやはり「悔い改め」と呼べるのかもしれません。戦争や差別、虐待が無くならない今を生きる私たちもイエスがこの世に来た意味を捉えきれていないのでしょう。しかし、ペトロとアンデレがイエスの招きに応えたように、私たちもイエスについていくという思いを忘れず心に留められたらと思います。
(執事ウイリアムズ藤田 誠)