「来るべき方」
(マタイによる福音書11章2~11節)
洗礼者ヨハネは、メシアとは、圧倒的な力と裁きをもって正義の実行をこの世界で押し進め、この世界を裁き、救いに導くものである、ととらえていました。そしてイエスこそが、そのメシアである、と期待していました。しかし、イエスの生きる姿は、そのようなものではありませんでした。ヨハネは自分の弟子たちをイエスのもとに送って尋ねさせました。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」
イエスは、ヨハネの疑問を伝達してきたヨハネの弟子たちに、「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。」と言います。 ヨハネの弟子たちが「見聞きしていること」を、イエス自身が自らの言葉で示します。それは、かつて預言者イザヤが、救い主によってもたらされる喜びの状況を示した言葉そのものでした(イザヤ書35:4-6)。体に障害をもっている人、差別されている人、命を失った人、貧しい人が、その存在を回復し、喜びと希望をもって新たに生きていく、という福音が実現されているのです。それは裁きと力で正義を実行し、目で見えるかたちで即時に圧倒的にこの世界を変革する事態ではありませんでした。しかしイエスの生きる姿は、苦しみと孤独、抑圧と絶望の中にある一人一人の人間に、確実に希望と救いをもたらす、神の愛の実現そのものでした。その愛の実現の喜びが力となって、ますます神の国が実現され深められていくのです。
ヨハネは、「正義の実行」と「愛の実現」について、どちらが来るべきもの、待つべきものか、悩みました。しかしイエスは、「正義の実行」と「愛の実現」が相反するものではなく、この両者が神のご計画のうちに、共に調和しつつなされていく、という真実に徹して生き、歩まれました。そしてイエスのみ業とみ言葉を「見聞きする」人は、真の福音のおとずれを確信するのです。
今この世界で、私たちは、イエスのみ業とみ言葉を「見聞きしていること」が求められています。