信仰の積極性
(ルカによる福音書19章1~10節)
私はこの2月にパレスチナのエリコを訪問しました。そのエリコの町のある十字路の一画に「ザアカイの木」がありました。それは、かつてイエスを見るためにザアカイが登ったいちじく桑の木だということでした。その木は、幹の直径が1メートル以上で、樹高は30メートルほどでした。枝がかなり高いところから出ているので、今は人がこの木によじ登ることはできません。しかし二千年前のイエスの時代、このエリコの町の徴税人の頭であるザアカイは、まだこの木が低かったので、イエスを見ようと先回りして、この木に登れたのだろう、と思いました。実は、この木がザアカイの登った木で、二千年前から生き続けている木だ、という確証はもてないそうです。しかし多分、エリコの町のこの十字路のこの場所に、イエスの時代からいちじく桑の木が植えられていたことはほぼまちがいなく、またこの木がザアカイの登った木ではなくとも、この木はザアカイの登った木の子孫であることは、ほぼ確かだそうです。
私は、ザアカイがイエスを見ようと先回りして登ったその「ザアカイの木」を見て、ザアカイの信仰の積極性を強く感じました。本日の福音書には、ザアカイの信仰の積極性が三つ記されています。一つは、「イエスに向かって先回りする」積極性です(4節)。二つめは、「イエスに従う」積極性です(6節)。三つめは、「人に仕える」積極性です(8節)。ザアカイは徴税人の頭で、人々から「罪深い男」と言われ、人々の共同体から遮られていました。またザアカイは背が低かったので、イエスを見ようとしても、群集に遮られていました。多くのものに遮られていたザアカイは、自らの信仰の積極性によって、その遮りを突き破り、救いの喜びにあずかりました。その信仰の積極性を燃え立たせるために、イエスはザアカイのところに来られたのです。そしてイエスは、私たちのところへも来られます。