中心をどこに
(ルカによる福音書4章21~32節)
イエスは故郷のナザレの町の会堂で、聖書を読み、教えを語りました。会堂にいた人々は皆、イエスの言葉を聞き、その恵み深い言葉に驚きました。しかし人々が驚いた理由は、イエスを通して語られる神の恵み深さを受けたからではありません。人々が驚いた理由は、「この人はヨセフの子ではないか」という人々のイエスに対する言葉に表われています。人々は、このナザレの町で一緒に生活をしていた大工のヨセフが、このイエスの父親であることを知っており、大工の息子のイエスが、学者や祭司でもないのに、このように神の恵み深さを語り教えていることに、非常に違和感をもち、驚いたのでした。人々は、地縁、血縁の枠の中で、偏見と先入観をもって、イエスをとらえていたのです。それは自分たちの立場が中心となることです。そのような人々は、イエスを通してまっすぐに神の恵みを受けることをせず、「お前が神の恵みを語る資格があるのなら、その証拠として、奇跡を行え」と、イエスに求めていきます。イエスは人々のその姿勢を先に見抜き、預言者エリヤや預言者エリシャが、かつて、地縁、血縁の枠の中で都合よく神の恵みを求めようとしていたイスラエルの民へは、奇跡を行わなかった史実を語ります。イエスはそのことによって、人々に、地縁、血縁の枠の中にあって偏見と先入観をもっているのであれば、神の恵みは受けられないことを、警告しました。人々は憤慨し、イエスを殺そうとします。イエスは人々の間を通り抜けてそこを立ち去られました。
イエスのみ言葉によって、まっすぐに神の恵みを受けることが、私たちにも求められています。自分の立場が中心ではなく、イエスのみ言葉を中心として、そのみ言葉そのものから神の恵みと力を受けることができるのです。