「仕える」イエス
(マルコによる福音書10章35~45節)
左大臣、右大臣という言葉が日本語にあります。これは、最高位の支配者の左右に座し、政治の実権をにぎる、実質的な権力者です。ヤコブとヨハネという兄弟であるイエスの弟子が、まさにこの左大臣、右大臣になりたいと、イエスに願います。それは、イエスが「栄光をお受けになる時」にそうでありたい、との強い願いでした。ヤコブとヨハネは政治的な権力志向の思いの中で、イエスの栄光の時をとらえていました。
しかしイエスは、左大臣、右大臣を従える最高位の支配者となるために、宣教をしていたのではありません。そうではなくて、支配者や権力者によって、利用されたり、切り捨てられたり、見捨てられたり、無視されたりしている、多くの苦しんでいる人々に「救い」の喜びを与えていたのです。それは、病人を癒し、遊女に本当の希望を与え、差別されている人々と共に食事をし、孤独な人に力と喜びを与える、という具体的な行動で現われました。このことは、支配者や権力者達にとっては、支配構造の秩序を乱し、社会が根底から変化しかねない、大きな問題となりました。そして支配者や権力者達、政治的・宗教的指導者達は、イエスに敵意と殺意をいだきます。しかしイエスは、彼らからくる迫害や苦難を受けてまでも、すべての人々に「仕え」、神の国の喜びを与えようとしたのです。そしてこのイエスの姿は、また、神のみ心に「仕える」生き方でもありました。
神と人に「仕える」このイエスに従っていくことが、弟子達にも、私達にも求められているのです。