「神の御心は何か」
(マルコによる福音書10章2~9節)
聖書には、結婚のあり方について示唆する二つの記述があります。一つは「男は父母と離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」(創世記2:24)とあり、神が定めた夫婦の一体性が示されます。ここには離縁というあり方はあり得ません。一方もう一つは、「妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」(申命記24:1)とあり、離縁を認める記述があります。イエスに敵対するファリサイ派の人々は、イエスを試そうとして、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」とイエスに尋ねます。イエスが、「適っている」と答えようと、「適っていない」と答えようと、どちらの返答をしても、ファリサイ派の人々は、イエスの答えとは逆の側の聖書の記述を引用して、イエスをせめようと考えていました。そのようなファリサイ派の人々にイエスは、申命記に記されているように、モーセが離縁状を書いて離縁することを許したのは、男性が身勝手に女性と離縁することに対して戒めるためだったのだ、と言います。男性が自分本位に身勝手に理由も無く女性と離縁することをさせないために、モーセは、「妻に何か恥ずべきことを見いだした場合に」離縁状を書くことを許したのです。ファリサイ派の人々は、上辺の言葉だけで聖書の記述や律法をとらえ、それを引き合いに出して、イエスをおとし入れようとしました。
男と女が結ばれ、二人が一体となる結婚という出来事には、創造主である神の祝福の御心がこめられています。イエスはすべてにおいて、「神の御心は何か」という原点に立ちかえることを私達に求めます。