赦されるために
(マタイによる福音書27章1~54節)
イエスの裁判を担当した総督ピラトは、イエスを処刑することに反対でした。理由は3つありました。一つは、自分がローマ帝国の皇帝から支配を任されている地で、だれかを死刑という処罰で罰するような不祥事や事件を発生させたくなかったことです。それは自分の支配・管理の不行き届きとローマの中枢からみなされることだからです。イエスを処刑したくない二つめの理由は、自分の妻から「イエスに関係するな」と伝言を受けたからです。妻は夜、夢で、イエスについて随分苦しんだというのです。総督ピラトがイエスを処刑したくないもう一つの理由は、人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからです。ピラトは最後までイエスに何の罪も見いだせませんでした。無実の者を処刑することは、その責任を自分が引き受けて、自分が処刑されるに値するほどの重罪でした。イエスを処刑したくないピラトは、最後の手段をとりました。だれがどうみても明らかに死罪に値する、バラバという大罪人を、イエスと並べたのです。罪人二人が並べられて、どちらか一方が釈放されたなら、その決定は絶対的なものです。ピラトは、すべての人が大罪人と認めているバラバと、訴えられた罪の内容が明確ではないイエスとを並べました。そして、「どちらを釈放してほしいのか」と人々に問いました。明らかに大罪人であるバラバが当然赦されず、何の罪も見いだせないイエスが当然釈放される、とピラトは確信していました。しかし人々は、「バラバを」と言いました。そしてイエスを「十字架につけろ」と激しく叫び続けていきました。大罪人で当然死罪に値するはずのバラバが赦され釈放されるために、何の罪も見いだせない無実のイエスが十字架にかけられて処刑される、という逆転が起こりました。当然死ぬべき者と定められた人が、その定めから救われて生きていくために、イエスが命をささげて死に至ったのです。
あの裁判で、あの大罪人のバラバではなく、私たちがイエスと並べられたらどうなのでしょう。あの大罪人のバラバでさえ釈放されたのです。まして私たちなら当然問題なく釈放される、と思っていないでしょうか。そうなのです。私たちが赦され釈放されるために、まさにイエスは十字架につけられるのです。