イエスに触れる=ただ信じる
(マルコによる福音書5章22~24、35b~43節)
会堂長のヤイロは、死に瀕している幼い娘を助けてほしいと、イエスに願いました。しかし幼い娘はイエスが家に到着しない間に亡くなった、という知らせを受けます。その時、イエスは娘の父親であるヤイロに、「恐れることはない。ただ信じなさい。」と言います。そしてイエスは、人々が泣き騒いでいるヤイロの家に着き、横たわっている幼い娘の手をとって、彼女を起き上がらせます。彼女は歩きだしました。会堂長のヤイロは、娘の病と死を通して、イエスと出会い、イエスの心に触れ、イエスに結ばれていきました。亡くなった幼い娘は、その手をイエスに触れられ、立ち上がることとなりました。聖書の本文では、このヤイロの娘の物語の途中に、病が癒された別の女性の物語が挿入されています。この女性は、イエスの後ろから、イエスの服に触れました。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからです。そしてこの女性は病がいやされました。この女性も病を通してイエスと出会い、イエスに結ばれていきました。そこにはイエスに触れるという出来事がありました。
4世紀に生きた教父アウグスチヌスは、「信仰とはイエスに触れることである」と言っています。私たちもイエスに触れているのです。それは、私たちがイエスを「ただ信じる」という、そのこと自体なのです。