使命を成し遂げるイエス
(マルコによる福音書15章1~39節)
復活日の前の主日である本日は、「受難の主日」とよばれ、今年はマルコによる福音書をとおして、イエスの十字架の出来事を読みます。
イエスはその「言葉」と「行い」によって多くの人々に救いと解放をもたらしました。出会う一人一人に救いの言葉を語り、病人の病気を癒し、疎外されている人に希望の回復をもたらし、罪人を赦し、その罪を取り去りました。しかしそのことは、当時の権力者や指導者たちのよしとしている秩序や社会構造を、根底から揺るがせることでした。「罪人や病人、徴税人や遊女、外国人は汚れている」という当時の秩序にあって、イエスがそのような「汚れている」とされている人々と共に、話しをしたり、食事をしたり、触れたり、喜びを分ち合ったりしていることは、反社会的な、許しがたい、あってはならないことでした。しかしイエスはそのことをなし続けていきました。それは、イエスがすべての人々の苦しみや、痛みや、悲しみや、罪を、自発的に自らが担っていく姿でした。その姿のゆえに、当時の権力者や指導者たちは、イエスに殺意をもっていきます。イエスは、時が来れば自分自身が十字架刑という極刑に処せられることを予期し、自覚していました。しかしイエスは、自らの使命をなし続けていきます。
イエスはその姿で自らの使命を貫き通したがゆえに、不正な裁判にかけられ、十字架による処刑が決定されました。そして自らが処刑される道具である重い十字架を担がされ、処刑場に向います。イエスが担いだその十字架の重さは、まさにすべての人々の苦しみや、痛みや、悲しみや、罪そのものの重さであり、そして権力者や指導者たちの悪意や罪の重さそのものでした。イエスはすべての人の苦しみや罪を、ただ一人で担い、そして十字架につけられ、死にました。イエスは自らの命をなげうってまで、すべての人の苦しみや罪を徹底的に引き受けられたのです。ここに神の完全な愛が、イエスを通してすべての人に実現されました。
自分にいき詰まり、自分に絶望しても、イエスの生き方の姿に、自分が新しく生きる可能性があります。それは、他者の苦しみを担おうとする、他者に仕えようとする、他者を愛そうとする生き方です。十字架のイエスは、その新しい生き方と、新しい命に、私たちを招いておられるのです。