イエスの示された神の愛
(ヨハネによる福音書12章20~33節)
本日の福音書は、イエスが十字架にかけられるエルサレムの都に入った後の、すぐの出来事が記されています。イエスは、自分自身がこれからどのようになるのかを弟子たちに語られます。それは、自分が父なる神の栄光を受けることになるが、それは自分が死ぬことである、とはっきりと言いました。弟子たちにとっては、イエスがいよいよこのエルサレムで神の栄光と権威をはっきりと現わし、救い主メシアとして決定的にこの世界に君臨していくものと思っていました。しかしイエスは、自らが死ぬことによって、神の栄光を受ける、と言います。
そのイエスのあり方が、イエス自身の言葉で語られます。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」と言います。麦の実一粒は、落ちて地面の中で死ななければ、いつまでもたった一粒でそのままです。しかしその一粒の麦が地面の中で死ねば、多くの実を生むことになるのです。
イエスはこの一粒の麦のたとえを用いて、自分がこれから身に受ける、十字架の上での「死」について、私たちに明らかにします。自分が十字架の上で死ぬことは、挫折や失敗や滅びではなく、多くの人々に「仕える」ことなのである、とイエスははっきりと言っているのです。イエスが十字架の上で死ぬという「仕える」ことによって、多くの人々が生かされていく、ということなのです。
これは、律法を与えられて人々が生かされていくことができるという、かつての旧い約束(旧約)とはちがいます。イエスが私たちに仕えることを通して示された「神の愛」によって、私たちは生かされていくことができるのです。この新しい約束(新約)が、今、私たちに与えられたのです。