その道筋をまっすぐに
(マルコによる福音書1章1節~8節)
私達は今、救い主イエス・キリストの誕生を迎えるための準備の期間、「降臨節」を歩んでいます。先週の降臨節第1主日では、「時をわきまえる」という姿のうちに、この降臨節を歩んでいこう、と確認しました。本日の第2回目の降臨節の主日では、「神に向かう心の道筋をまっすぐにする」というあり方を、確認したいと思います。
本日の福音書では、ユダヤのかつての預言者、イザヤの言葉が引用されています。神がイザヤの口を通して語られた言葉は、救い主メシアがこられる前に、主に向かう「道」を整え、まっすぐにせよ、と叫ぶ者が現れる、と預言します。このイザヤによって預言された叫ぶ者が、メシアであるイエス・キリストが公に現れる前に、罪の悔い改めにみちびく「洗礼」を人々にすすめた、洗礼者ヨハネなのです。当時のユダヤ人たちは、自分達は選ばれた民なので、メシアがこられたら自動的に罪から救われる、と確信していました。そのように考えていた当時のユダヤ人に対して、ヨハネは、罪の赦しを得させるために、悔い改めの洗礼を宣べ伝えていました。その水による洗礼は、メシアの救いにあずかるための、「道を整え、道筋をまっすぐにする」ことでした。救いは、自動的になされることではありません。救いにあずかる者の側の、「備え」がなされていなければなりません。救いを求める者として、神に向かう心の道筋をまっすぐにすることが、原点です。この信仰の原点に立ち帰ることが、今の、この降臨節に求められています。
昔、中近東には、「王の道」という重要な道がありました。その道は、王が支配しているその領域にあって、各地方の要所から、まっすぐに王の宮殿のある都までつづいていました。その道を進めば、迷わずに最短距離で、最短時間で、王の都に到達することができました。同様に、神様のおられる所に向かって、そのような「道」が整えられ、その道筋がまっすぐにされていなければなりません。それをすることができるのは、実に、私達自身なのです。