全てのキリスト者の姿
(マタイによる福音書5章1~12節)
マタイによる福音書において、イエスが語られた具体的な教えの一番最初は、「山上の説教」といわれる教えです。そこでは、どのような人々が幸いであるのか、ということが示されます。その説教の中の、一番初めにイエスが語った言葉は、「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」という教えです。これは信仰をもって生きる者の、方向を示す言葉です。「心が貧しい」とは、物質的に富んでいても心が満たされない状態や、何か悩みや問題を抱えている状態をいうのではありません。物質的にほんとうに何もない貧しさの中にあるほどの、その苦しみや痛みを、神に対してもっている、という状態をいいます。神の前に自らが打ちひしがれた者、神の前に無一物の者が、「心の貧しい人」です。
しかしイエスは、その「心の貧しい人」に神の全財産である天の国が与えられる、と教えます。なぜでしょうか。それは、神の前に打ちひしがれ、神の前に無一物になって、神にすべてを頼りきり、神にすべてをゆだねきる「心の貧しい人」を、神はよしとしておられるからです。ここに信仰の原点と、信仰者の歩み進む出発点と姿があります。
本日の11月1日は、教会暦で「諸聖徒日」という祝日に定められています。諸聖徒日は本来、この世の生涯を終えた全てのキリスト者(クリスチャン)を記念する祝日でした。しかし中世期になると聖人崇拝が盛んになり、諸聖徒日は世を去った聖人を記念する日に限定され、聖人以外の世を去ったクリスチャンは11月2日の「諸魂日」に記念されるようになりました。
本来の「諸聖徒日」が歴史的に今の諸聖徒日と諸魂日に分かれているとしても、私たちは、神にすべてを頼りきり、神にすべてをゆだねきる「心の貧しい人」として、神の愛のうちにその生涯を歩んだ、全てのキリスト者の魂の平安を祈り、その信仰の証をほめたたえたいと思います。